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杉森健一
イランの良さを伝える杉森
25歳の時に出た世界の旅の途中にてイランを訪れ、ハマる。その後はイラン渡航を繰り返し、現在は雑貨店運営・旅行業・フェス事業・執筆業など幅広くイラン関係の事業に携わりつつ、SNSやマスメディアなどでイラン情報を発信中。
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イランの歴史をわかりやすく!イラン好きが観光スポットも絡めて時代系列で解説!

こんにちわ!PERSIAN TAGの杉森です。

今回のテーマはイランの歴史。

イランは世界の中でも古代から高度な文明を持った国で、かつては世界の中心であった古代オリエントを統一するという偉業を成した国。

歴史を知れば知るほど文化を知るのも楽しくなるし、旅行の楽しさも倍増します。

ただ、イランの歴史は非常に複雑で、特にイラン系やアラブ系、テュルク系、モンゴル系など様々な王朝の勃興や侵入、滅亡を繰り返し今に至っているため、観光スポットに行っても「ここは〇〇朝が〜」「あそこは××朝で〜」など、とにかく多種多様な王朝の名前が出てきて、非常にややこしくて気が狂いそうになります。

そこで、本記事ではイランの歴史の基本となる重要な王朝をピックアップし、該当する観光スポット情報を差し込みながら簡潔に解説していきます!

ちょっとした旅行気分を味わいながら、イランの歴史の流れを見ていきましょう!

目次

【イランの歴史】先史:文化の芽生えと王国の誕生

早速ですが皆さま、古代の四代文明と言えば、覚えてますでしょうか?

・メソポタミア文明
・エジプト文明
・インダス文明
・黄河文明

の4つですね。

残念ながらこの中にイランの文明はありませんが、実はイランも同時期から文明が栄えていました。

まずはそのあたりの古代文明から見ていきましょう!

ザーヤンデ川文化(BC6000年頃〜)

イランで最も古い文化のひとつと言われるのが、イラン中部に流れるザーヤンデ川周辺で栄えたと考えられるザーヤンデ川文化。現存する遺跡は、観光地としても人気の高い都市、カーシャーンにあるテペ・シアルク。

なんとBC3000年頃(約5000年前!)に建設されたと考えられるジッグラトです。

イランの歴史_テペ・シアルク
テペ・シアルクの全体像。実際に登ることも出来る / 筆者撮影

カーシャーンの市街地からのアクセスも良く、現在でも気軽に立ち寄り、その歴史の深さを感じることができるスポットです。

ジーロフト文化(BC3000年頃〜)

現在のアフガニスタンやパキスタンと接するイラン南東部ではジーロフト文化ヘルマンド文化と呼ばれる文化が栄えていました。

代表的な遺跡は、世界遺産にも登録されているシャフレ・ソフテ。アフガニスタンとの国境も近く、残念ながら現在は治安的に訪問が推奨されていないですが、芸術性が高い出土品などはテヘランの考古学博物館など、多くの博物館で見ることが可能です!

エラム文化(BC3200年-BC500年頃)

メソポタミア文明が栄えていた現在のイラクに近いイラン南西部・フーゼスタン州付近ではエラム文化が栄え、やがてエラム王国へと発展。

文字や言語を含むこの時代の文化や政治制度は、その後のイランの歴史のベースともなっていきます。

今後も長きに渡り重要な都市として栄えあるスーサは、長期間に渡りエラム王国の首都として栄え、その遺跡は世界遺産にもなっています。

また、スーサの近くにある同じく世界遺産のチョガー・ザンビールもエラム時代のジッグラトですが、約3000年前のものとは思えない程、保存状態もいい遺跡ですので、イランに行った時は是非とも訪れて欲しい遺跡です!

メディア(BC715-BC550頃)

イラン南部ではエラム王国が栄る一方、イラン北部では現在の「イラン人」の先祖となるアーリア人たちがユーラシア大陸から南下する形でイランへ入り、メディアという国家を立ち上げます。

メディアはエクバタナ(現在のハマダーン)を中心にグングンと勢力を伸ばし、前612年には当時メソポタミア(現在のイラク)を中心に絶大なる力を持っていたアッシリアを、お隣の新勢力・新バビロニアとタッグを組んで打ち負かし、現在のイランの殆どを統治する様になります。

この古代オリエント(いわゆる中東)は、

・メディア(黄色)
・新バビロニア(濃緑)
・リディア(青)
・エジプト(黄緑)
 ※()は下の地図色

この4つの国がそれぞれ力を持つこととなります。

イランの歴史_オリエント世界の勢力図
オリエント世界の勢力図(BC600年頃)
出典:The Historical Atlas by William R. Shepherd, 1923.

【イランの歴史】古代:ペルシア帝国の誕生と繁栄

イランの歴史_アケメネス朝のシンボル
アケメネス朝のシンボル

そんなこんなで4勢力が均衡する古代オリエントに、ついにイランの時代がやってきます。

それこそが、イランの歴史を語る上で最も大切な要素の一つである

アケメネス朝ペルシア

です!

アケメネス朝はイランを統一するばかりか、その勢いで古代オリエント(中東)を統一し、当時の史上最大国家として、イランだけではなく世界の歴史に大きな影響力を与えた国。

このことは、2000年以上の時が経った現在でも、イラン人にとって誇り高き歴史として認識されています。それほど重要な王朝なのです。

ということで、アケメネス朝の歴史をみていきましょう!

アケメネス朝ペルシア(BC550-BC330頃)

メディアの統治下の元、アンシャン(現在のシーラーズ付近)を仕切っていたペルシア人・キュロス2世

BC550年頃にキュロス2世はメディア相手にクーデターを起こし、それが成功し、アケメネス朝ペルシアの初代王として独立。

その後、あれよあれよという間にエラム・リディア・新バビロニアを倒し、前525年にはキュロス2世の後を継いだ息子・カンビュセス2世がエジプトも倒し、古代オリエントを世界を統一!

3代目の王・ダレイオス1世の時代(BC521-BC486)には、東はパキスタンから西はギリシャの方までを統治し、アケメネス朝は最盛期を迎えます。(しかし、ギリシャの本丸には勝てず・・)

イランの歴史_ペルシア帝国の勢力図
ペルシア帝国の勢力図(BC500年頃)
出典:Persian Empire about 500 B.C. 
From The Historical Atlas by William R. Shepherd, 1923.

現在も人気観光地となっているペルセポリスは、このダレイオス1世の時に建てられた都(宮殿)。

オリエント中のアケメネス朝の属州の臣下たちがダレイオス1世に謁見をするために、この地へと足を運んできたと言われています。

 
で、そんなこんなで誰もが羨む様な繁栄を極めたアケメネス朝ですが、ダレイオス1世の子孫であるダレイオス3世の時代に、ギリシャのマケドニア王国、アレクサンドロス大王に滅ぼされ、ペルシア帝国の歴史も一旦閉じることとなります。(紀元前330年)

ここまでの流れが1枚になっているgifを見つけましたので貼っておきます〜!

イランの歴史_Timeline of Pre-Achaemenid era.
Timeline of Pre-Achaemenid era.
by Ali Zifan

セレウコス朝シリア(BC312-BC248)

イランの歴史_セレウコス朝の勢力図
セレウコス朝の勢力図(BC281年)
The Hellenistic World in late 281 BC
by Cattette

アケメネス朝がアレクサンドロス大王に滅ぼされ、イラン全域はマケドニア王国によって支配される様になりましたが、間も無くアレクサンドロスは他界、その後継者争いの末にセレウコス1世が建てたセレウコス朝シリアによってイランは支配される様になります。

セレウコスはマケドニア王国出身のギリシア人で、この時代のイランは「ギリシア人によって統治されていた時代」となります。

セレウコス朝はシリアを中心として、オリエント世界にギリシャ的文化や社会を浸透させ(ヘレニズム)、各地にギリシャ式の都市や軍事植民地を築き、そこにギリシア人を定住させて統治を行っていました。

しかし、セレウコス朝が力を入れていたエリアは現在のシリアやイラクあたりで、イランにはあまり注力しなかった模様。その中で地元の有力者たちが次々に独立する様になります。

そんな状況で頭一つ抜け出したのが、イラン北東部に住むパルティア人でした。

アルサケス朝パルティア( BC248-AD224)

イランの歴史_アルサケス朝の勢力図
アルサケス朝の勢力図(BC100年頃)
Map of the Parthian Empire under Mithridates II.
by Ro4444

当時、イラン北東部・パルティア地方の有力部族の長であったアルサケス1世が前248年にアルサケス朝を成立させると、100年ほどでセレウコス朝からイランのほぼ全域を奪い取り、イランを統治する様になりました。

その後パルティアは順調に領土を広げますが、ローマとの戦いによって国は弱体化していきます。

サーサーン朝ペルシア(226-651)

イランの歴史_サーサーン朝時代のエンブレム
サーサーン朝時代のエンブレム
Simurgh (imperial emblem) of Persia
by Shaahin

アルサケス朝の元、現在のシーラーズ付近を統治していたペルシア人のアルダシール1世はパルティアに対し反乱を起こし、226年にサーサーン朝を建国します。

これは、BC330年に滅亡したアケメネス朝以来、約500年振りとなるペルシア人の王朝の誕生となり、一般的に「ペルシア帝国」というと、このサーサーン朝ないしアケメネス朝(時にはアルサケス朝も含む)のことを指します。

サーサーン朝は成立以降、勢力を順調に拡大し、アケメネス朝の様にオリエントの大部分を統治しました。

イランの歴史_サーサーン朝の勢力図
サーサーン朝の勢力図(620年頃)
The Sasanian Empire at its greatest extent c. 620, under Khosrow II
by Ro4444

現在でもシーラーズがあるファルース地方にはサーサーン朝にゆかりのある遺跡も多く、2018年には「ファールス地方のサーサーン朝考古景観」として8件の遺跡が世界遺産に登録されています。

また、ペルセポリス付近にはアケメネス朝〜サーサーン朝にかけての王たちの墓であるナグシェ・ロスタムがあり、そこではサーサーン朝の王たちの活躍がレリーフとして現在も残っています。

イランの歴史_ナグシェ・ロスタムのレリーフ
サーサーン朝の王・シャープール1世がローマ皇帝とアラブ皇帝を捉えている様子が描かれている、
ナグシェ・ロスタムのレリーフ(修復中)
筆者撮影

サーサーン朝はゾロアスター教を国教としたことでも有名で、それまでは口承によって伝えられてきたゾロアスター教を体系的にまとめ上げ、啓典や教会、宮殿での儀式などの整備なども行うことで、宗教の範疇だけでなく文学や音楽的な文化も発展していきます。

しかし、そんなペルシア人の王朝も、あの世界的勢力に一蹴されることとなります・・・・!

【イランの歴史】中世:他民族による侵略下の元での、文化の繁栄

アケメネス朝に引き続き、オリエント世界を統一し大帝国として栄えたサーサーン朝ですが、600年代に入るとローマ軍との戦いで疲弊し弱体化してきた頃に、当時の世界最強集団によって滅亡へと導かれます。

その世界最強集団こそが・・・

イスラーム勢力

です。

610年頃に現在のサウジアラビアで生まれたイスラームの共同体は瞬く間に勢力を拡大し、650年頃にはサーサーン朝も滅ぼし、イランを支配することになります。

その後、イスラーム勢力の中で力を持ったムアーウィアがウマイヤ朝を建て、イスラームの共同体を帝国化し、さらに拡大していきます。

ウマイヤ朝(イスラーム帝国 / 651-)

イランの歴史_ウマイヤ朝の勢力図
ウマイヤ朝の勢力図(緑部分・750年頃)
Map of the Mediterranean and Middle Eastern worlds around 740 CE.
by Constantine Plakidas

ウマイヤ朝時代のイランでは、イスラームへの改宗は強制では無かったものの、改宗すれば税金を払わなくてよくなったり出世しやすくなったりするためにゾロアスターからイスラームへ改宗する人が増えていきました。ここから、イランのイスラーム化が始まります。

現在のイランで使用されるペルシア語は、文字はアラビア語から派生したペルシア文字を使用しますが、それもイスラーム化の影響によるものですね!

◾️スンニ派とシーア派
現在のイスラームの二大宗派・スンニ派とシーア派が分裂したものちょうどこの頃。4代目のイスラームの指導者(カリフ)に選出されたアリーの死後、5代目のカリフを受け継いだのがウマイヤ朝の建国者であるムアーウィア(スンニ派)で、それに反発する形でアリーの息子であるハサンを真の後継者とした人々がシーア派となります。

しかし、イスラームへ改宗しても非アラブ人は引き続き納税を迫られたりなど、何かとアラブ人を優遇するウマイヤ朝に対して、イラン含む各地で反ウマイヤ運動が盛んになり、それを取りまとめたアッバース一族が750年にアッバース朝を建国し、ウマイヤ朝に変わってイスラーム世界を統治することとなります。(アッバース革命)

アッバース朝(イスラーム帝国 / 750-)とイラン系地方政権

アッバース朝の時代は、ウマイヤ朝時代にあったアラブ人の優遇政策なども少なくなり首都のバグダッドを中心に繁栄を見せるものの、地方では内乱が頻発したりと、決してその権威は領土全体に浸透していませんでした。

その結果、イランでもホラーサーン地方のターヒル朝(821-)やイラン南東部を中心としたサッファール朝(861-)、ウズベキスタンを中心に起こったサーマーン朝(873-)、シーラーズのブーヤ朝(934-)、カスピ海沿岸部のズィヤール朝(931-)など、数多くのイラン系王朝が成立することに。

イランの歴史_10世紀中頃のイランの王朝
10世紀中頃のイランの王朝
ブーヤ朝(カーキ)/サーマーン(黄土)/ズィヤール朝(紫)/ サラリド朝(緑)
Map of the Iranian dynasties in the mid 10th-century.

その中で、一旦はイスラーム勢力によるアラブ化により翳りを見せていたペルシア文学も、この時代にはサーサーン朝までに築き上げてきた独自の文化にイスラーム的要素を取り入れることで、新たなペルシア文学として発展を遂げることとなります(ペルシア文芸復興)。

現代でもイランで愛されている、「ペルシア詩人の父」とも呼ばれるルーダキー(860頃-)や、今日のイラン人のアイデンティティの源流ともなっている「シャー・ナーメ(王書)」のフェルドウスィー(934-)もこの時代に生きた大詩人です。

その一方、10世期の半ばごろの中央アジアではテュルク系(トルコ系)の遊牧民族が力をつけていき、イラン系の王朝もその力に押され始めてきました。

セルジューク朝(イスラーム帝国 / 1038-1308)

まずはテュルク系のガズナ朝が955年に成立すると、その後しばらくして1038年に建てられたセルジューク朝があっという間に勢力を拡大、イラン全土を掌握します。

その後、3代目スルターン、マリク・シャーの時代には、彼の右腕として名を馳せたイラン人官僚ニーザムル・ムルクの施策の元に、西はトルコ、東はウズベキスタンまで勢力を伸ばします。

イランの歴史_セルジューク朝の勢力図
セルジューク朝の勢力図(1092年)
The Great Seljuk Empire in 1092, upon the death of Malik Shah I
by MapMaster

テュルク系の王朝とはいえ行政の中心はニーザムル・ムルクなどのペルシア人の官僚たちがペルシア語で行っていたので、この時代でもペルシアの伝統や文化などは廃れることはなく、発展を遂げていきます。

代表的な文化人としては、詩人としてだけではなく天文学者としても名を馳せた、ウマル・ハイヤームなどはこの時代の人ですね!

その後セルジューク朝は1200年頃には、かつての地方政権で同じくテュルク系のホラズム・シャー朝にイランから追い出され、変わってホラムズ・シャー朝がイランを統治します。

そんな中、13世紀にはイラン、いや、ユーラシア大陸全体を恐怖のどん底に落とし込む事件が起ります。

それが・・・

モンゴル帝国の侵略

です。

イルハーン朝(モンゴル帝国系列 / 1258-1353)

イランの歴史_モンゴル帝国の勢力図
モンゴル帝国の勢力図の推移(13世紀)
Expansion of the Mongol Empire 1206–1294 superimposed on a modern political map of Eurasia
by Astrokey44

1206年にチンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国は、その圧倒的な軍事力を武器に西を攻め、徹底的な略奪と破壊とともにイランを制圧、1258年にはイラクに入りアッバース朝を倒し、チンギス・ハーンの孫であるフレグ・ハーンイルハーン朝を成立し、瞬く間に中東はモンゴル帝国の一部となります。

しかし、イルハーン朝がイランにもたらしたものは破壊と略奪だけではなく、都市や文化の発展にも非常に大きな影響を与えました。

例えば、現在でも最も有名なイランの工芸品の一つとされる細密画(ミニアチュール)はモンゴル帝国経由で伝わってきた中国美術の影響を大きく受けていますし、7代目国王であるガーザーン・ハーンの指示によってペルシア語で書かれた歴史書「集史」は、現在でもアジア〜オリエントの歴史を読み解く上で欠かせない本となっています。

イランの歴史_イランのミニアチュール
中国やモンゴルの影響を受けた、イランのミニアチュールの例
Ascent of Muhammad to Heaven (c. 1539–1543), from the Khamseh of Nizami

また、世界遺産であるゴンバデ・ソルターニーイェは8代目国王のオルジェイトゥのお墓として建てられましたし、イルハーン朝の首都として栄えたタブリーズでは、アルゲ・タブリーズなどこの時代の痕跡も見ることができます!

ちなみに、モンゴル帝国はイスラーム教国家ではないのでイルハーン朝も建国しばらくはイスラームではありませんでしたが、第7代君主・ガーザーン・ハーンの時にイスラーム国家へと変わっていきましたので、イランでも引き続きイスラームの信仰が続けられました!

そんなイルハーン朝ですが、1300年ごろから激化し始めたチンギス・ハーンの子孫による権力争いに乗じて、1370年に興ったティムール朝がイルハーン朝に変わってイランを仕切るようになります。

ティムール朝(モンゴル帝国系列 / 1370-1507)

1370年にイラン北部を中心に建国したティムール朝は、瞬く間にシリアやトルコまで征服し、サマルカンドを首都として一大王国を築き上げます。

現在のサマルカンドもペルシア式の美しい建築物が多く、旅行先として人気の都市。それらの多くはこのティムール朝時代にイランからウズベキスタンに伝わったものですね。

西アジアを中心に勢力伸ばしたティムール朝ですが、西側からテュルク系の国が自立し始め、1375年には黒羊朝(カラ・コユンル)、1378年には白羊朝(アク・コユンル)が成立し、特に白羊朝は1400年代にはほぼイラン全域を統治するものの、内紛などで国力が低下し、ついには1508年にはサファヴィー朝に滅ぼされます。

【イランの歴史】近世:ペルシアの復活と繁栄

さて、ここからはイランの歴史を語る上で非常に重要なゾーンに入っていきます。

というのも、サーサーン朝がイスラーム勢力に飲み込まれてから約800年間、イランはアラブからやってきたイスラーム勢力や、トルコやモンゴルからやってきた遊牧民族などに国を統治され続けてきました。

そんな中、このサファヴィー朝はサーサーン朝振りの完全独立のイランを軸に置く王朝で、現在のイランの国教となっているイスラム教シーア派、十二イマーム派を国教と定めイラン全国に浸透させた、現代のイランの始まりとも言える王朝なのです。

サファヴィー朝(1501-1736)

イランの歴史_サファヴィー朝時代の国旗
サファヴィー朝時代の国旗
Flag of the Safavid Dynasty from 1576 to 1666
by Orange Tuesday

サファヴィー朝の起源は、イルハーン朝時代にイラン北西部のアルダビールにてサフィー・ウッディーンが起こしたイスラーム神秘主義を掲げるサファヴィー教団でした。

彼らは現在のアゼルバイジャンあたりのテュルク系民族を味方につけ勢力を拡大し、ついには白羊朝や、先にティムール朝を滅したウズベキスタンのシャイバーニー朝を滅し、サーフィーの血を継ぐイスマイール1世が初代の王(シャー)となりサファヴィー朝がイランを治めるようになります。

イランの歴史_イスマイール1世
イスマイール1世
Portrait of Shah Ismail I of Iran
by Cristofano dell’Altissimo

その後サファヴィー朝は、オスマン帝国などの侵略や国内の権力争いなどで国が安定しない時期が続きますが、5代目シャー(王)に即位したアッバース1世の時代には、軍や体制の改革、外交や貿易の促進を行うことによりサファヴィー朝は安定した繁栄を見せるようになります。

イランの歴史_Shah Abbas I
Shah Abbas I
by Dominicus Custos

それらの改革の中心となった地が、エスファハーンに造られた政治や宗教・商業・芸術など全ての要素を1箇所に集結させたナグシェ・ジャハーンと呼ばれる広場。現在では「イマーム広場」とも呼ばれています。

この場所を中心にイスファハーンは非常に栄え、「イスファハーンは世界の半分」と称されるようになりました。

さらにアッバース1世は、イスマイール1世の時代に大敗を喫した西の大国・オスマン帝国にも戦いを挑み勝利すると、イギリスと手を組み、大航海時代の大国・ポルトガルからホルムズ島を奪取するなど、軍事的にも大きな成功を収めます

その後もオランダやフランスなどのヨーロッパとの大国とも良い関係を築き、そのカリスマ的手腕でイランを大国へと返り咲かせたアッバース1世ですが、1629年に死去。

以後サフィー1世やアッバース2世などが後を継いでいきますが、アッバース1世ほどの手腕はなく、1638年にはオスマン帝国にイラクを奪われ、東からはアフガンからの侵略を受け、さらに国内は権力争いなどで混乱に陥り国力は低下し続け、遂には1736年にはナーディル・シャーがサファヴィー朝に代わりアフシャール朝を建て、サファヴィーの時代も終わりを告げます。

アフシャール朝(1736-1796)

イランの歴史_Contemporary portrait of Nader Shah
Contemporary portrait of Nader Shah
by Unknown Artist

ナーデル・シャーは破竹の勢いで東西へと領土を拡大し、オスマン帝国からはイラクを奪い返し、さらには西側はインドのデリーまで手中にします。

その後、ナーデルは在位11年で家臣に暗殺されて生涯を閉じますが、その短い期間の中でインドからトルコ東部までの広大な領域を支配下に治めたその手腕は現在でも伝説とされており「ペルシアのナポレオン」と呼ばれるほど、現在も多くの人に愛されています。まるでイラン版織田信長ですね!

ナーデルの死後、アフシャール朝は急激に衰退し、シーラーズのカリーム・ハーン率いるザンド朝がとって変わって台頭します。が、ザンド朝もカリームの死後、イラン北部のガージャール部族によって滅ぼされることとなります。

【イランの歴史】近代:内憂外患による受難時代

サファヴィー朝の繁栄などでイランの力が再興してきたと思いきや、ここからイランは圧倒的受難の時代を迎えます。

18世期頃の世界と言えば、大航海時代を経て世界中の富をかき集めたヨーロッパ諸国が、圧倒的な資金と軍事力で世界を牛耳っていく時代です。

イランも、もれなくヨーロッパ諸国の食い物にされ、まるで開国直後の日本のような内憂外患の時代に突入します。

ガージャール朝(1779-1925)

イランの歴史_ガージャール朝時代の国旗
ガージャール朝時代の国旗
State flag of Persia (1907-1933)
by SeNeKa

ガージャール朝はイラン北部やアルメニアなどに住むガージャール部族の連合軍が建てた政府です。

サファヴィー朝の時代から徐々に力を蓄えてきたガージャール部族のアーカー・ムハンマド・カーンが1779年にガージャール朝を立てると、イランの王朝としては初めてテヘランを都と制定します。以後、現在に至るまでテヘランはイランの首都として栄え続けることに。

イランの歴史_ Mohammad Khan Qajar, the founder of the Qajar dynasty of Iran
 Mohammad Khan Qajar, the founder of the Qajar dynasty of Iran

以降、自らをアーガー・モハンマド・シャーと名乗りアフシャール朝を滅ぼすなどしてイラン全域を手中に治めますが、1797年にあっけなく召使により殺害。

その後、2代目シャーのファトフ・アリー・シャーの時代から外国勢力のとの関係が急激に悪化していきます。

1800年にアゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの領土をめぐり、第一次ロシア・ペルシア戦争が勃発し、1812年に敗戦、翌13年に結んだゴレスターン条約によりジョージアなどをロシアに奪われます。

更に1826年には第二次ロシア・ペルシア戦争が勃発し、これにも敗戦したガージャール朝は1828年に結ばれたトルコマーンチャーイ条約で、

・北アゼルバイジャンとアルメニアをロシアに割譲
・ロシアの領事裁判権を認める
・カスピ海のロシア軍艦の独占通行権を認める
・500万トマンの賠償金

という踏んだり蹴ったりの不平等条約をロシアに結ばされます。

そんな中、1836年にファトフ・アリーの後を継いだ3代目、ムハンマド・シャーの時代には「グレートゲーム」と呼ばれるロシアとイギリスの覇権争いが激化し、イランも巻き込まれることとなります。

北からはロシア、南からはイギリスの圧力により板挟み状態の状況に加え、国内ではバーブ教というイスラームから発展した宗教の信者による大規模な反乱が起こるようになり、まさに内憂外患に陥ります。

イランの歴史_ナーセロッディーン・シャー
ナーセロッディーン・シャー

そんな中、1848年に4代目に就任したナーセロッディーン・シャーはロシアの協力を得て国内のバーブ教徒の反乱を抑えつつ、敏腕政治家アミール・キャビールを中心に国内の改革を行います。

イランの歴史_アミール・キャビール
アミール・キャビール

国内の改革は、アミール・キャビールが以前オスマン帝国に派遣されていた経験からヨーロッパ式の近代化を目指す大改革を行いますが、ナーセロディーンはアミール・キャビールが行う改革に対し不満を持ち、最終的にはアミール・キャビールをカシャーンのフィン庭園で暗殺してしまいます。

フィン庭園は現在「ペルシア式庭園」として世界遺産にも登録されていて、観光客にも人気のスポットとなっていますが、実はこのような黒い過去も。

その後ナーセロッディーンはイギリスやロシアなどのヨーロッパ列強の都合の良い様に扱われ、数々の不平等条約を結んだり、国内の利権を外国に売り飛ばしたりともう散々・・!

特に、現在の世界的通信社の創業者であるイギリスのロイター男爵に鉱山や銀行に関する利権(1872)を、同じくイギリス人のタルボットにタバコの利権を付与(1890)したことで国内から猛反発を受け、イランは大混乱に陥ります。

ちなみにこのナーセロッディーンの肖像画が描かれたコップやシーシャなどは非常に多く存在し、イランで見かけたことがある方も多いのではないでしょうか?

イランの歴史_食器
テヘランの食器店に並ぶ、ナーセロッディーンが描かれた食器 / 筆者撮影

ナーセロッディーンは歴代の王様の中でも飛び抜けて評判が悪いですが、紅茶文化をイランに広まったのがこの時代、ということで多くの食器に描かれています!

また、この時代は西洋の国々と交流が増えたことでそれらの文化とイラン固有の文化がミックスされたガージャール文化が建築・芸術分野などで非常に発達した時代。それらの特徴が詰まったテヘランのゴレスタン宮殿は非常に見所が多い観光スポットです!

そんなこんなでナーセロッディーンはその後1896年に暗殺され、5代目には息子のモザッファロッディーン・シャーが就任し、その後、1901年にイランで石油が発見されると、その利権もすぐさまイギリスのものとなり、新たに設立されたアングロ・ペルシアン石油会社というイギリスの企業がイランの石油関係を仕切ることとなります。

この時すでに、イランはヨーロッパ列強の半植民地状態になります。

イラン立憲革命(1906-1911)

ガージャール朝政府の専制政治により、この時期のイランの経済や暮らしは非常に不安定となり、国内には数々の反乱分子が存在していました。

そんな中、反乱分子が集結し、憲法と議会の設置を求める民主主義運動・イラン立憲革命(1906-)が起こります。日本でいう1870年代から始まった、板垣退助率いる自由民権運動のようなものですね!

その結果、1906年には議会が開設、憲法が発布されますが、ガージャール朝の後ろ盾となっていたロシアやイギリスなどの妨害もあり、結局のところ1911年には元のガージャール朝による専制政治にもどり、立憲革命は失敗に終わります。

イランの歴史_1906年に開かれた国会の様子
1906年に開かれた国会の様子
Parliament in 1906

1915年には第一次世界大戦が始まると、イランはオスマン帝国の侵略や英露軍の占領などでカオスを極め、その結果ガージャール朝も弱体化し、1921年には軍人であるレザー・ハーンがクーデターを起こし、1924年にはガージャール朝を廃止させ、翌年パフラヴィー朝を成立させます。

パフラヴィー朝(1925-1979)

イランの歴史_State flag of Iran 1964-1980
State flag of Iran 1964-1980

レザー・シャーとしてパプラヴィー朝を起こしたレザーは、カオスと化したイランを立て直すべく、

・権力の中央集権化
・政治の非宗教化
・軍事、体制の西洋化

に力を入れます。

イランの歴史_レザー・シャー
レザー・シャー
Picture of Reza Shah, emperor of Iran in the early 30’s in uniform

その結果、不平等条約の撤廃や鉄道開設などの功績も出していくなどの近代化政策には多くの支持を得ますが、脱イスラームの点では国内の保守派の反発を招くこととなります。

更に、1945年に第二次世界大戦が勃発するとイランの状況も大きく変わります。

大戦に対して、当初はイランは中立を宣言していましたが、国内でのイギリスやロシアの支配から脱する為、徐々にナチスに接近していった結果、イランはロシアとイギリスによる侵略を受けます。

その結果、英露米に油田や鉄道を奪われ、レザー・シャーは失脚させられ、息子のモハンマド・レザーが代わって王位につきます。

イランの歴史_モハンマド・レザー・シャー
モハンマド・レザー・シャー
Official portrait of Mohammad Reza Pahlavi

モハンマド・レザーは議会に大きな力を委ねると、1951年の選挙で選出されたモサッデク首相が当時イギリスが仕切っていたイランの石油会社を国有化するなど、ロシアよりの動きを見せるようになります。

そうすると、冷戦でロシアと対立する英米はそれに猛反発し、モサッデクを失脚させ、次の首相は選挙ではなくモハンマド・レザーによって指名させるようになります。

ここでいわゆる米英の傀儡政権が完成しました。

1956年には、モサデク失脚に関与したアメリカへの見返りとして、今後25年間に渡ってイランの石油利権を、

・アメリカ:40%
・イギリス:40%
・オランダ:14%
・フランス:6%

で分割する契約も行います。

その後はアメリカの経済・軍事援助のもとで、1963年には白色革命と呼ばれる近代化・西洋化に向けてのトップダウンの大改革を行いますが、改革の軸となる原油価格の暴落により失敗に終わり、イランはまたもや混乱に陥ります。

特に、オイルショックによって貧富の差が増大した貧困層や、西洋化によって立場を追われたイスラームの層の王政に対する不満が大きくなってる中、各地で反政府運動も盛んになり、その運動の中心人物であり、後にイランの指導者となるルーホッラー・ホメイニーは1964年に国外追放となります。

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ルーホッラー・ホメイニー

モハンマド・シャーはそのような反乱分子をSAVAKと呼ばれる秘密警察によって弾圧してきますが、1970年代にはもはや手がつけれないほど反体制運動は大きくなり、ついには革命が起こります・・!

【イランの歴史】現代:イスラーム共和国としてのイラン

イランの歴史_イラン・イスラーム共和国の国旗
イラン・イスラーム共和国の国旗

イスラーム革命(1978-79)

1970年代のイランは、欧米の支援を受けたモハンマド・レザーによるトップダウン式の大改革により、国内で貧富の差が拡大し、貧困層や脱イスラーム化によって除け者にされていたイスラーム保守派層を中心に国内で反政府デモが活発化していました。

そんな中、パフラヴィー朝に追放されパリに亡命していたシーア派の指導者、ルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事が1978年1月に新聞に出ると、聖地ゴムを中心に大規模なデモが発生すると、各地でも相次いでデモや暴動が起こる様になります。

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1978年12 月に起こったテヘランでのデモの様子

今までの鬱憤を晴らすかのごとく瞬く間に全国に広がった反体制運動は、もはやパフラヴィー朝の手にも追えなくなり、モハンマド・レザーは身の危険を感じ翌79年の1月には国外退去します。

その後入れ違いで2月1日にホメイニーがパリから凱旋的に帰国すると、4月1日にはイラン・イスラーム共和国を樹立し、ホメイニーが提唱するシーア派イスラームに則った政府が誕生します!

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イランに帰国するホメイニー

アメリカ大使館人質事件(1979.11-1989.1)

イスラーム国家の樹立とともに更なる身の危険を感じた元国王のモハンマドは、モハンマドの友人でアメリカで絶大なる信頼がある元アメリカ国務長官、キッシンジャーの働きかけによりアメリカへ亡命します。

そこでイランの反パフラヴィー派は、モハンマドの亡命を受け入れたアメリカに対して抗議デモを行いますが、それが拡大するにつれ遂には暴動に達し、暴徒化した民衆が1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館に侵入し、アメリカ人52人を人質にとった立てこもり事件が発生します。

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米大使館の塀に登り、米の国旗を燃やすデモ参加者

途中一部の人質は脱出しますが、結果的にこの人質事件は1981年1月22日に人質が444日振りに解放されるまで続き、この事件以来現在に続くまでイランとアメリカの国公は断絶されたままです。

この事件の舞台となったテヘランのアメリカ大使館は現在は博物館となっており、外壁に描かれた風刺画などはまさに反米政府の象徴的存在となっています!

イラン・イラク戦争(1980-1988)

イランの歴史を語る上で欠かせない事件の一つであるイラン・イラク戦争は1980年から1988年の8年間に渡り続き、100万人以上の犠牲者を出した戦争です。

当時のイラクは、大統領のサッダーム・フセインの元、イラクをアラブのリーダーに押し上げる為にオイルマネーで軍事を拡張し、中東内では絶大なる力をもっていました。

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イラクのサッダーム・フセイン元大統領

そこで、革命によって混乱落ち着かないイランを攻め、イラクと隣接するイランの油田地域であるフーゼスターン州をイラクに組み込むプランを実行、1980年9月ごろからイランとイラクの国境付近で小競り合いが散発する中、9月22日の未明、イラク軍の全面攻撃が始まると本格的に戦争が始まります。

すると、アメリカやイギリスなどの欧米の国々や、シーア派イスラーム勢力の拡大を懸念したサウジアラビアなどのアラブの国々がこぞってイラク側につき、イラクとイランの戦力差は歴然となりイランは苦戦を強いられることとなります。

しかし、イラン国民の義勇兵としての参戦やイスラエルなどの支援によってイラン側も勢力を盛り返してきます。

イランの歴史_イラン・イラク戦争中に標的となった都市
イラン・イラク戦争中に標的となった都市
A map indicating the attacks on civilian areas of Iran, Iraq, and Kuwait that were targeted during the “War of the Cities”

現在はイランとイスラエルは最強に仲が悪いのですが、この頃はまだパフラヴィー朝時代の良い関係がある程度続いていたことと、イラクとは仲が悪かったこともあり、イラン側につきました。

加えてアメリカも、イランのアメリカ大使館人質事件関連の交渉による取引条件として、イランに武器を供給していて、アメリカはイラクとイランの両方を支援するという奇妙な形で戦争に関わっています。

また、イランの義勇兵には16歳-17歳を中心とした少年も10万人近く動員されていたそうです・・・!

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イランの革命防衛隊の集会に参加するイランの青年・少年たち

その後、戦争は一進一退をが続き、1988年9月に国連が介入するまでの約8年間戦争は続き、両陣営合わせて100万人以上が命を落とす悲惨な戦争となりました。

WW2以降で100万人以上が命を落とした戦争なんて本当に数えるほどしかありませんので、世界的に見てもイラン・イラク戦争は非常にショッキングな戦争です。

核兵器製造疑惑による経済制裁(2007-現在)

世界には191か国が参加する核不拡散条約(NPT)という条約があり、これによって核兵器の所持は、条約締結時に所持していた米・英・露・仏・中のみにしか認められないとなっています。

しかし、2002年にイランが秘密裏に核施設を建設していたことがわかると、イランに対しての核兵器開発疑惑が持ち上がり、以降欧米諸国を筆頭に国連からイランの核開発の規模縮小を提示するが、イランは「原子力活動はあくまでも発電などの平和的利用の為」と核兵器開発疑惑を否定し、国連の提示を断ってきました。

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2007年にウランの濃縮計画強化を発表する当時のアフマディネジャド大統領

そこで国連は2007年にイランへの経済制裁の決議を採択し、欧米を筆頭に制裁を科すことになり、これによりイランの経済活動は制限をかけられ、経済の停滞が続くこととなります。

しかし、2015年にはP5+1(英米露仏中+独)とイランの間で、核開発の縮小や施設の定期視察を受け入れることで経済制裁を段階的に解除していく、いわゆる「核合意」が締結されます。

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2015年7月14日のウィーン協議での核合意の様子

その後、イランの経済は向上するかと思われましたが、2018年5月にアメリカのトランプ大統領が一方的に核合意から離脱することを発表し、追加の経済制裁を科すこととなります。

2019年5月にはアメリカはイラン原油の全面禁輸に踏み込むと、欧州諸国もイランへの経済支援をしにくい状況になり、イランはそれに対抗して核合意の停止を宣言し、核開発を強化していく対抗措置をとったことで、核合意はもはや空前の灯火となっています。

現在の世界中が注目する議題となっているので、今後の動きも要注目です!

おわりに

相乗以上に長くなってしまいましたが、最後までお付き合い頂きましてありがとうございます!

ニュースを理解するためにも、旅行を楽しむためにも歴史を学ぶことは非常に重要なことと思いますので、是非これを機にイランの歴史にも興味を持って頂けますと幸いでございます!

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